透析患者の日常と達観
今日、とある会合に出席しましたが、そこで腎不全となり透析している方のお話を伺ってきました。
元々そういう議題でもなかったのですが、出席者も予定より少なく、何となく雑談めいた感じとなり、自然とその方のお話が中心となっていきまた。
いろいろと大変な現実や、東日本大震災で透析患者がどうなったのかといったところまで話は及びました。震災では透析患者であることが言い出せず亡くなってしまった仲間もいたそうです。
透析に通わなくてはならない日常や食事制限、水分摂取の制限など苦労は絶えないはずなのですが、その話しぶりは実に軽快そのもの。悲壮感など微塵も感じさせません。病気になってしまった現実は変わりようがなく、それを実に見事に受け入れ、人生を謳歌しようという姿勢は感服ものでありました。
本人曰く、透析になってからの平均余命は25年であり、自分は56歳から透析をしている。従って平均81歳が死に時だ。それならそれまでを楽しく生きなきゃ損だ、と。だからやりたいことは全部やる。パソコンも定年退職してから始めたのだ、と。実に見事な病人ぶりだと思いました。
ま、81歳なら平均寿命より長いわけですが。
それはともかく、その思いに至るまでには、それこそ悶え苦しむほどの様々な葛藤があったに違いないのですが、そういう雰囲気を全く感じさせず、今を楽しむ健全な心とその雰囲気には感服せざるを得ませんでした。病気は違えど同じ病人として、かくありたいものだと思いました。
病は横並び社会からの脱出の嚆矢
さて、この方はそうして身は病気となりながらも、今を生きており、むしろ充実した人生を生きているように見えます。そして、それと対照的なのが今の日本のサラリーマンだなと感じました。とにかく生き残るために会社かじりつかなければならず、そのためにはサービス残業や休日出勤、人間関係の軋轢など、様々な理不尽を受け入れねばならない人が多くいると聞きます。自分の時間なんてほとんどなく、余暇や楽しみなどもほとんどとれない事も多いのでしょう。身体は健康なのかもしれませんが果たしてそういう人の人生は健全なでしょうか。
とかく日本人は同調圧力が強く、横並び精神が旺盛です。人生も出世も何もかも世間相場と違ってはいけないという思いが強すぎるために楽しくない人生を送ることを余儀なくされている人が多いように見受けます。
一病息災と言うように、むしろ病気になり、周囲と全く違った人生を受け入れざるを得なくなってしまった方が心の軛から解き放たれ自由に楽しく生きられるのではないか。社会的通念から逃れるためには相当に辛い葛藤を経なければならないのでしょうが、一度そこから脱してみればまた違った人生も開けてくるのでしょう。
逆に、それだけの葛藤を経なければ自由な人生が楽しめない日本という社会の閉塞感の現れではないかとも思います。
ではうつ病患者も人生のリセットが必要
最近、自分は以前の自分と変わってきたと思う部分があります。それは社労士として開業したからだという側面もありますが、それよりも鬱病の経験から人生観が変わったことが大きいのではないか思います。私自身もそれまでの人生観を一度完全に否定せざるを得ない心理的状況に追い詰められたことがあり、そのことは逆に自分の人生の大切な糧となっているのだろうと思っています。全くの健常者には経験できない事を体験した事は、自分にとって今では強みだとすら思っています。
私は鬱から脱出するためには一度人生を諦める必要がある、と常々思っています。
ここで言う諦めるというのは、人生を終わらせるという事ではなく、それまでの人生が形作ってきた自分なりの人生観を一旦すべてリセットし、再設計し直さなければならないというような意味です。その作業はとても苦痛を伴うもので、一朝一夕にはいきません。しかし、徐々に時間をかけて生き方を再設計しなければ、現状の自分を許せなくなってくる日が必ず来てしまいます。それは自殺の引き金です。そうなってしまう前にリセットし、改めて現状に合わせたオーダーメイドの人生を見つけることがとても大切なのだと思うのです。
そして、それが達成できた暁には、鬱病ですら「良い思い出」と豪語できるその日が来るのではないでしょうか。