てんかんネタ、Again
先日、てんかんについての記事を書きました。
それ以降も、ネットの中ではてんかんについての情報があふれています。特に、てんかん患者自身からの意見には注目に値するものが多くあります。
中でも、とても共感したものは、はてなダイアリーのthir氏の記事、「てんかん患者からの免許はく奪はより深い意味を持つ」です。
ここでは、てんかん患者の運転免許規制をする事で、てんかん患者に与える深刻なインパクトについて書かれています。
てんかん患者の運転免許規制をする帰結としての社会崩壊
てんかん患者の自動車運転免許を規制する事によって、社会にどのような影響を与えるのでしょうか?
それは、「今、なんとか普通に生きている多くの患者の生活が暴かれ、奪い去られる危険」です。
そのことを示す前に、まず、てんかん患者をはじめとする精神疾患患者などがどのような日常を送っているのか、という確認が必要です。
「クローズ」な生き方って知ってますか?
thir氏の記事から引用します。
てんかんに限らず、慢性精神疾患やエイズなど告知によって差別・偏見を受ける疾患は多数存在する。そういった疾患を持つ者は、多くの場面において自らが病気であることを自分から話さない。それは、就職の際にも同様である。告知せずに就職をし、雇用主からクリティカルな質問を受けない限りは病気を隠し続ける——これが「クローズ」(クローズド)という生き方である。
「クローズ」という生き方を選択せざるを得ない人々というのは、現に多数存在しています。
てんかんについて、たいした知識もない私ですが、こと「うつ病」(「そううつ病」も含みます。以後も断りがなければ「そううつ病」も含むと思ってください。)という事になれば、実体験を持っています。大勢のうつ病患者の知人もおります。
それらの中で、おおっぴらに自分が「うつ」だ、と宣言している人はどれほどいるでしょうか?
ごく親しい人には告げることもあるでしょうが、広く一般社会に対して自分が精神疾患であるという事を「開いて」いる人はほとんどいないと思います。
個人的体験としての「オープン」
私自身について言えば、かなりオープンにしている方だと思います。
精神疾患向けの障害年金のセミナーなどでは、まず、自分がそううつ病であるという告白から始めています。
そういうオープンな発言について、自分自身にひっかかりがないかと言えば、全くそんな事はないのです。できる事なら人には言いたくない。なんでもないような顔をして生きていきたいと思っています。
なぜなら、うつ病である、と明かした途端に自分に向けられる眼差しは色を変えてしまうからです。
少なくとも、患者本人の感覚からすると、そういうフィルターがかかるのだろうな、と言う恐れは常に抱いています。
しかし、私は、自分自身の不幸を切り売りする事が、自分の仕事を成功させる上で役に立つという思惑と、うつ病そのものに対する見方を少しでも変えていきたいという思いがあります。
「私もうつ病です」という一言の巨大なインパクト
うつ病を6年近くやっていると、多くのうつ病の人に会う機会があります。プライベートで会う人もいれば、仕事上のつながりで知り合う人もいます。彼らに、「私もうつ病です」と一言告げるだけでとても強い共感を共有する事ができます。
なぜか?
それは、彼らは常に健常者に対して負い目を感じ、自分自身の病気に関する事はできるだけ伏せて生活しているからです。世間とのそういう関係の中にあって、同じ病気の人に出会うと、とても「安心」するのです。
それはとりもなおさず、日常会話の中では、あからさまに語る事のできない様々な悩み、苦労について、偏見を心配することなく、素直に語り合う事ができるからです。
うつ病患者同士であれば、「私もうつ病です」はマジックワードと言ってもいいでしょう。この一言を告げた瞬間、それまでの緊張は嘘のようになくなります。そこからは「仲間意識」すら生まれてくるのです。
「オープン」と「クローズ」の狭間で
事ほど左様にうつ病患者は、自身の病気についてコンプレックスを抱いているのです。
それは健常者には中々理解できない事でしょう。
私はそういう偏見は持っていない、と言う方も大勢いらっしゃいます。幸いな事に、私の身近な人たちも、うつ病について色眼鏡で見ようなどと考えている人は皆無です。皆、とても優しく、気を遣ってくれます。その善意は疑う余地はありません。
しかし、詳細に話したところで解ってくれるとも思えない。変な誤解を生むだけかも知れない。そういう不安を抱えています。
初めて会う人に対して、自分の病気について、話していいものかどうかは本当に心剣に悩みます。
自分の仕事を説明する上で、踏み込んで話をできる場合は、是非もなく話す、という事にしています。この場面では、なぜ自分がこの仕事をやりたいと思っているのか、という思いを相手に伝える事が最も重要な要素だと思っているからです。そして、なぜやりたいのか、と言う理由の根本は、自分のうつ病体験にあるからなのです。
しかし、ちょっとした知り合いに対する態度については未だに迷いがあります。
同業の社労士にはできるだけオープンに話すようにしています。なぜなら、彼らはメンタルヘルスという問題に近しい職業だから、その実態について、是非生の声を聞いておいてほしいと思うからです。
しかしながら、これもいつでもどんな時でも言えるのかというとそうでもないのです。
まず、この話題を出せる雰囲気があるかどうか、と言う事です。親睦会でみんなが楽しくやっている中で、「オレ、うつ病なんです」と切り出した日には、その場が凍り付きかねません。「オレ、腎臓の病気なんだ」と切り出した時は、その場は凍り付く程の気温の低下はないにも関わらず、です。
社会生活を営む上での必須スキル「クローズ」
最も重要な局面としては、就職の面接です。
まさか、「うつ病で2年間療養してきましたが、最近良くなってきたので働こうと思って・・・」と面接で言う訳にはいきません。
と言う事は、自分の病気の事を一切秘匿して就職し、良心の呵責に耐えるという苦行を一生背負わなければならないのです。その上、ばれたら首になる、という恐れもあり、日常の精神活動への気配りは健常者が考えているものとは次元の違う重さがあります。
それでも、そういうリスクを背負ってでも、一般社会に溶け込んで行かなければ、今の日本という国では一ヶ月として生きていく事はできません。
そういう仕組みになっています。もしくは、そう仕組みになっている、と患者は思っています。
障害者の心に福音をもたらすような社会制度はありますか?
もちろん、障害年金という制度があります。
私自身、それを精一杯お手伝いする事で、その人の人生の負担を少しでも軽くしたい、と思っています。
しかし、現実の厚生労働省の対応として、精神疾患の障害年金の支給は少しずつ絞っていこうという傾向が見られます。ただでさえ十分とは言えない年金ですが、それすら受給できなくなる人が多くなりそうです。
年金をあきらめたら、残されるところは生活保護のみです。こちらも各市町村の財政状況が極めて厳しいなか、どれほど受給し続けられるかというのは大きな問題となっています。
何より、それら経済的な問題を解決したとしても、それでも尚、世間体、と言う大きな壁が存在しているのです。
自分が「障害者」である、という事実を受け入れるのには、相当な時間と覚悟がいります。さらに、障害年金で社会からお金をもらって生きるしかない、と悟った時の絶望感というのは何とも言えない悲壮さを漂わせます。それは体験すると、文字通り「死にたく」なにます。
仮に、障害年金又は生活保護を受給できたとしても、その額は微々たるものです。そこから、人生が上向きになる事はない、と知る事。これも精神的に相当苦しいものがあります。
こうした大量の障害を乗り越えて、初めて「オープンな病人」を気取る事ができるのです。
中々できませんよ。
そんな苦労とリスクを背負うくらいなら、ウソついて会社に就職した方が楽ですし、お得です。
クローズにしなければ、人並みの生活はあきらめなければならない、という厳然たる事実がある訳です。
thir氏は言います。
「クローズ」においては、病気にり患している事実を徹底的に隠し続けなくてはならない。ゆえに、一般的な「健常者」が出来る業務は同様にすべてをこなすことが可能であること、履歴書上健常者となんら変わりないことを表明する必要がある。
そうする事でようやく人並みの生活を「目指す」事ができる。それが精神疾患の患者の見ている「世界」です。
てんかん患者運転規制で起きる小さな悲劇
そうした現実を踏まえた上で、免許規制が実施されたらどうなるのか、と言う事を考えましょう。
再びthir氏のブログからの引用です。
当然「運転免許を取得することはできない」ということを雇用主に対して表明しなくてはならない。その表明の際は、おそらく「なぜか」と問われるだろう。この質問に対しては、もはや素直に「てんかんを持っているので…」と回答するしかない。この瞬間に、かぶっていた仮面は剥がされ、崩れ落ちる。
運転免許証を規制した場合、できなくなることは「運転」だけではない。「クローズ」という生き方そのものが危険にさらされる。
たかが自動車免許一つによって、世間の目をごまかしながら何とか通常の生活を獲得しようともがいている人たちの、たった一つの盾はあっさり取り払われてしまいます。
むき出しになった患者は、もはや一般社会に溶け込む事は事実上不可能です。
ユートピアはあるの?
差別のない社会を創ろう、などという美辞麗句を並べる人もいるでしょう。
でも、それは無理なんじゃないですか?
だって、外見では中々解らない病気で、しかも発病したときどんな状態になるのか想像がつかないんです。
どこかが痛いとか、身体の機能が異常を来すとか、そういうものはほとんどなく、行動力がなくなる、とか、感情がかき乱される、とか、当事者以外は「想像で補う」しかない症状なんですね。
人の想像力なんてたかが知れています。
私は親しいウツ友と、「同じウツでも、あんたの苦しみはさっぱり解らん。同じうつ病なのに、ね。人間は本当にわかり合う事はできない。立場を想像するしかないんだよね。」という会話を繰り返していました。
同じような時期に、同じ病気にかかり、ほぼ毎日顔を合わせていた2人が、共通の認識として、「あんたの苦しみは解らん」というものだったのです。
況んや健常者には「想像」する事すら難しい事なのだと思います。
そういう事は、別に「うつ病」だけに限った話ではなく、どんな病気についても同様なんだと思います。
HIVとか、肝炎とか、世の中には沢山偏見にまみれた病気があります。それらのフィルターすべてを取り払ったユートピアというものは想像上の産物でしかないのです。
最後に、もう一度thir氏のブログを引用します。
差別がなくなることが最も良いことである。それは、てんかんという病それ自体への偏見がなくなり、職場についても運転はさせないとか、そういうものである。ただ、私はこの国でそういう文化が根付くのかと言われたら、根付かいと言わざるを得ないと思う。履歴書に一つでもキズがあると渋るような経営者が大多数を占めているこの国の上位層が、「キズ」のひとつである精神疾患・脳疾患にたいして寛容になることはおそらくありえない。私は社会的な差別は一切なくなるべきだと思う。しかしそれは残念ながら理想論だ。私は理想論を語りたいのではない。理想論はあくまでも理想であり現実で今苦しんでいるものにとっては、それ自体が苦痛でしかない。
それでも!それでもだ、そういった「社会的偏見はなくならない」という状況の下で、クローズという生き方を行えば、普通の暮らしがおくれるのだ……これだけは最低担保しておくべきである、それが私の主張である。
社会と個人の軋轢の中にあって
てんかん患者の自動車事故については、深刻な社会問題であることは疑いもない事です。
実際、てんかんが原因で、または原因と思われる事故が発生していることに変わりはありません。それをなんとかせずに放置することは社会正義に悖ります。
その議論が盛んになることは、社会全体としてはよいことでしょう。
しかし、それは社会の構成員である個人として、すべての人に福音をもたらすものではない可能性というものがある。
むしろ、これまで無難に生きてきた基盤を根こそぎ剥ぎ取り、暗闇の世界に追い落とすことにもなりかねない。
そういう事実もあるということも又知った上での議論になってほしいと思っています。
蛇足ですが・・・、改めてネットってすげぇ
最後に、蛇足ながら付け加えると、こうした事件についていろいろ考える上で、やはりインターネットというものの存在はとてつもなく重要な存在になったようです。
20年前の世界であったなら、マスコミ発表の「てんかん患者による悲惨な事故」が主題となり、「かわいそうな罪もない被害者」という対象がクローズアップされ、これからてんかん患者の運転免許の規制についての話をしよう、と世論は一義的に誘導された事でしょう。
今、ブログ、Twitter、Facebookといった各種発信メディアがあるおかげで、マスコミからはにじみ出てこない、様々な立場の専門家、当事者の意見を聞く事ができる世の中になりました。
その結果、世の中は全く単純ではない、という事に気づかされ、安直な結論を導き出そうという風潮が、まさに衆愚政治となりかねない危険を孕んでいる事を痛感させられるのです。
インターネットという未曾有の情報化ツールを得た現在、もっと様々な立場の人の主張をしっかり聞き取れる社会になってほしいと切に願います。