Archive for the ‘年金’ Category
障害年金の意味 ~療養生活と社会復帰という視点の違いから
障害年金用のリーフレットの原稿を書いていて解った事があります。
なぜ、私が障害年金を自らの仕事としたのか、とか、障害年金を受給する事の意味とか。
今までも、もちろん自分なりに意識しているつもりではあったのですが、改めてその思いを文書にしようとすると大変に難しい作業でした。ところが、それが少し形になってくると、それまで自分では意識していなかった事が表れてきて、とても面白いものです。
まだ十分に納得がいっているわけでもないですし、このままでは長すぎてリーフレットには使えないのですが、自分が何を考えて障害年金という仕事を手がけているのかが解る面白いものになったので、そのままお蔵入りするのはもったいないと、ここに転載しておこうと思います。
障害年金は「今日」と「あした」のあなたを支えます
普段何気なく送っている日常生活は、実は健康な身体があってはじめて成り立っています。
思いもかけない事故や病気によって、そんな普通の生活を失ってしまうことがあります。メンタルヘルスに関する病気にかかると、同じように日常生活が失われていきます。中でも、うつ病は10人に1人はかかると言われるほどに多くの人が苦しんでいます。
こうした人生を左右するほどのアクシデントに対して、個人で備えておくことは簡単なことではありません。
そこで国による社会保障という制度があるのです。中でも病気や怪我などで働けず、日常生活もままならないという不安定な生活を支えるのが障害年金なのです。
障害年金を受給すると、毎月一定の収入を確保できます。そうすると、その後の生活が安定するだけでなく、さらには社会復帰を目指すときの礎ともなるのです。
うつ病の場合、将来社会復帰が可能なところまで回復する可能性はかなり高いのです。しかし、現実問題として、本当に立ち直り社会復帰するまでには長い時間が必要となります。それは病気からの快復の時間ということもあります。が、何より闘病が長期化したり、再発したり、また、うつ病を前提に社会復帰をしなければならないということもあるでしょう。そうした場合、うつ病そのものを「自分の一部」として受け入れなければならないこともあります。それを受け入れるのには長い時間がかかります。その間の不安定な生活を支えてくれるのは家族や友達だけではないのです。障害年金という社会の制度もあなたを支えます。
そして、やがて社会に復帰する「その時」がきます。けれど長い間の闘病生活で体力は落ちています。また以前と同じようには働ける状態にはないかもしれません。それでも「その時」、家族や友達だけでなく障害年金もあなたの背中を押してくれます。
例えば、障害年金で生活の基礎収入を賄いながら、アルバイトなどの仕事から社会復帰を目指すといったこともできます。障害の程度によっては、働きながらでも障害年金をもらえることがあるのです。
もし、障害年金がなかったら、「アルバイトだけでは生活が成り立たない」と悲観してしまい、前向きな考えもできないかもしれません。
最低限の生活費は何とかなる。そう思えるだけで背中の重い荷物も幾分かは軽くなるかもしれません。
最低限の生活を守り、その後のより良い人生を切り拓くためのもの。「今」と「あした」の生活をこじ開ける武器、それが障害年金なのです。
こんな感じです。
療養中の障害年金とその後社会復帰する時の障害年金では、その意味合いが少し違ってくるのだという事に気づきました。
うつ病で療養していたりすると、生活はかなり惰性になってしまいます。なんとなく日々が辛くって、それでなんとなく毎日が過ぎ去ります。主体的に生活する事は難しいものです。そういう時の障害年金は自分の生活そのものを引っ張っていってくれるような存在なのではないかと思うのです。
生活の糧もなく、生きていく意味も見いだせない暗闇の中にあって、障害年金そのものは自分を直接には助けてはくれないのですが、しかし、わずかなりとも収入がある事でその人の「生」は引っ張られます。もし家族の助けも自らの蓄えも無かりせば、真っ逆さまに落っこちていってしまう「生」も、障害年金という浮き輪がある事で若干の浮力を得るのです。
一方で、ある程度病気も回復し、自分の人生にうつ病を織り込み済みにする事ができる段階になってくると、今度は自分が能動的に生きてみたくなる。なんとか原寸大の自分の力で生きていきたいと思い、また、それで到達できる人生というものにも納得をしてきます。
そうすると、今度は障害年金のわずかな浮力に頼って生きていくというよりは、失速して落ちそうになった時の受け皿という意味合いが加わってくるのです。もちろん、変わらず浮き輪として浮力を与えてくれる存在である事には変わりはないでしょう。
ただ、必死にそれにすがりつくという存在から、安全装置的存在へと変わっていくのです。
そうした変化というのは、病人自身の考え方というか、ものの捉え方の変化があるという事で、考えてみれば当たり前なのですが、今までは特に意識をしていませんでした。
障害者と言っても、いつまでも同じ状態が続くのではなく、特にメンタルヘルスの患者の場合、状況は時間とともに変わっていきます。私自身、いろいろに変化する自分自身というものを見てきました。その時その時のステージによって求めるものも変わってきます。
そういう事も踏まえて障害年金の必要性というものを訴える事ができるのではないか。むしろ自分もうつ病経験者であるのならば、そういった側面をこそ語るべきなのではないか。
自分の仕事の立ち位置というものを少し見直してもいいのではないかと思いました。
今日考えたばかりの事で、まだ消化不良でちゃんとした表現になっていないのですが、また機会があったらキッチリ考えます。が、とりあえず今日はここまでにしたいと思います。
障害年金の時効がなくなる!? 時効の起算点を変える名古屋高裁の判決
ちょっと驚きの裁判例が出ていたので、速報的にご紹介します。
名古屋高裁の障害年金の時効に関する判決です。
名古屋高裁平成24年4月20日判決
この運用によって,10年さかのぼって受給資格の認定を受けながら,5年分しか障害基礎年金を支給されなかった女性が,不支給であった分の支給を求めた訴訟の控訴審判決で,名古屋高裁は請求棄却だった一審判決を取消して,請求を認めました。
この判決の意味するところ 実質時効がなくなる?
過去に障害認定日がある障害年金を請求した場合で、今までは過去にさかのぼって支給されるのは5年まででした。それが、今回の判決ではくつがえり、障害が認定された時点までさかのぼって支給しろ、という事です。
名古屋高裁の理由は,上記のような年金は請求をしないと盛られない仕組みに着目して,認定されてから給付を受けられるので,その時点から時効が起算されるというものです。
年金の時効が始まる時期が、これまで障害があると認められる最初の時点とされていたのが、請求をした時点に変わるという事です。
これは事実上、時効がなくなるという事です。
高裁レベルの判決なので、何とも言えないのですが、これまでの障害年金実務をすっかり変えてしまう破壊力のデカイ内容です。
諸手を挙げて喜びたいが・・・ ますます認定が厳しくなる?
年金受給者側からすると、とても良い判決です。
が、年金制度全体で見たらどうなんだろうという懸念があります。
ただでさえ危機的な状況にある年金財政です。さらなる支払への対応は避けたいところでしょう。
現に、今障害年金界隈で話題となっている事として、障害年金の更新の時、それまでと全く同じ診断書であったのに障害等級が引き下げられたり、ひどい時には支給停止になってしまっていると言う事態があります
この対応は、法律や判決で不都合があるなら、運用でなんとかしよう、というように見えます。
過去5年にさかのぼるだけで、数百万円単位の一時金です。
これが10年、20年まで認められるという事になると一千万円単位の請求になってきます。
現状、支給を絞り始めている年金が、それに唯々諾々と従うとは思えません。
一番手っ取り早い対応は、障害年金の支給の基準を運用上高く設定してしまうという事です。
これまでは認められていた程度の障害でも、認められにくくなってしまう。そういう事になると、障害年金受給者全体で見た時、必ずしも得であるかどうかは解らない、そう思えてしまうのです。
いずれにせよ、まだ名古屋高裁の判決です。今後どのような展開をたどるのか注視したいと思います。
てんかん問題、再考 患者の生きる手段が奪われる!?
てんかんネタ、Again
先日、てんかんについての記事を書きました。
それ以降も、ネットの中ではてんかんについての情報があふれています。特に、てんかん患者自身からの意見には注目に値するものが多くあります。
中でも、とても共感したものは、はてなダイアリーのthir氏の記事、「てんかん患者からの免許はく奪はより深い意味を持つ」です。
ここでは、てんかん患者の運転免許規制をする事で、てんかん患者に与える深刻なインパクトについて書かれています。
てんかん患者の運転免許規制をする帰結としての社会崩壊
てんかん患者の自動車運転免許を規制する事によって、社会にどのような影響を与えるのでしょうか?
それは、「今、なんとか普通に生きている多くの患者の生活が暴かれ、奪い去られる危険」です。
そのことを示す前に、まず、てんかん患者をはじめとする精神疾患患者などがどのような日常を送っているのか、という確認が必要です。
「クローズ」な生き方って知ってますか?
thir氏の記事から引用します。
てんかんに限らず、慢性精神疾患やエイズなど告知によって差別・偏見を受ける疾患は多数存在する。そういった疾患を持つ者は、多くの場面において自らが病気であることを自分から話さない。それは、就職の際にも同様である。告知せずに就職をし、雇用主からクリティカルな質問を受けない限りは病気を隠し続ける——これが「クローズ」(クローズド)という生き方である。
「クローズ」という生き方を選択せざるを得ない人々というのは、現に多数存在しています。
てんかんについて、たいした知識もない私ですが、こと「うつ病」(「そううつ病」も含みます。以後も断りがなければ「そううつ病」も含むと思ってください。)という事になれば、実体験を持っています。大勢のうつ病患者の知人もおります。
それらの中で、おおっぴらに自分が「うつ」だ、と宣言している人はどれほどいるでしょうか?
ごく親しい人には告げることもあるでしょうが、広く一般社会に対して自分が精神疾患であるという事を「開いて」いる人はほとんどいないと思います。
個人的体験としての「オープン」
私自身について言えば、かなりオープンにしている方だと思います。
精神疾患向けの障害年金のセミナーなどでは、まず、自分がそううつ病であるという告白から始めています。
そういうオープンな発言について、自分自身にひっかかりがないかと言えば、全くそんな事はないのです。できる事なら人には言いたくない。なんでもないような顔をして生きていきたいと思っています。
なぜなら、うつ病である、と明かした途端に自分に向けられる眼差しは色を変えてしまうからです。
少なくとも、患者本人の感覚からすると、そういうフィルターがかかるのだろうな、と言う恐れは常に抱いています。
しかし、私は、自分自身の不幸を切り売りする事が、自分の仕事を成功させる上で役に立つという思惑と、うつ病そのものに対する見方を少しでも変えていきたいという思いがあります。
「私もうつ病です」という一言の巨大なインパクト
うつ病を6年近くやっていると、多くのうつ病の人に会う機会があります。プライベートで会う人もいれば、仕事上のつながりで知り合う人もいます。彼らに、「私もうつ病です」と一言告げるだけでとても強い共感を共有する事ができます。
なぜか?
それは、彼らは常に健常者に対して負い目を感じ、自分自身の病気に関する事はできるだけ伏せて生活しているからです。世間とのそういう関係の中にあって、同じ病気の人に出会うと、とても「安心」するのです。
それはとりもなおさず、日常会話の中では、あからさまに語る事のできない様々な悩み、苦労について、偏見を心配することなく、素直に語り合う事ができるからです。
うつ病患者同士であれば、「私もうつ病です」はマジックワードと言ってもいいでしょう。この一言を告げた瞬間、それまでの緊張は嘘のようになくなります。そこからは「仲間意識」すら生まれてくるのです。
「オープン」と「クローズ」の狭間で
事ほど左様にうつ病患者は、自身の病気についてコンプレックスを抱いているのです。
それは健常者には中々理解できない事でしょう。
私はそういう偏見は持っていない、と言う方も大勢いらっしゃいます。幸いな事に、私の身近な人たちも、うつ病について色眼鏡で見ようなどと考えている人は皆無です。皆、とても優しく、気を遣ってくれます。その善意は疑う余地はありません。
しかし、詳細に話したところで解ってくれるとも思えない。変な誤解を生むだけかも知れない。そういう不安を抱えています。
初めて会う人に対して、自分の病気について、話していいものかどうかは本当に心剣に悩みます。
自分の仕事を説明する上で、踏み込んで話をできる場合は、是非もなく話す、という事にしています。この場面では、なぜ自分がこの仕事をやりたいと思っているのか、という思いを相手に伝える事が最も重要な要素だと思っているからです。そして、なぜやりたいのか、と言う理由の根本は、自分のうつ病体験にあるからなのです。
しかし、ちょっとした知り合いに対する態度については未だに迷いがあります。
同業の社労士にはできるだけオープンに話すようにしています。なぜなら、彼らはメンタルヘルスという問題に近しい職業だから、その実態について、是非生の声を聞いておいてほしいと思うからです。
しかしながら、これもいつでもどんな時でも言えるのかというとそうでもないのです。
まず、この話題を出せる雰囲気があるかどうか、と言う事です。親睦会でみんなが楽しくやっている中で、「オレ、うつ病なんです」と切り出した日には、その場が凍り付きかねません。「オレ、腎臓の病気なんだ」と切り出した時は、その場は凍り付く程の気温の低下はないにも関わらず、です。
社会生活を営む上での必須スキル「クローズ」
最も重要な局面としては、就職の面接です。
まさか、「うつ病で2年間療養してきましたが、最近良くなってきたので働こうと思って・・・」と面接で言う訳にはいきません。
と言う事は、自分の病気の事を一切秘匿して就職し、良心の呵責に耐えるという苦行を一生背負わなければならないのです。その上、ばれたら首になる、という恐れもあり、日常の精神活動への気配りは健常者が考えているものとは次元の違う重さがあります。
それでも、そういうリスクを背負ってでも、一般社会に溶け込んで行かなければ、今の日本という国では一ヶ月として生きていく事はできません。
そういう仕組みになっています。もしくは、そう仕組みになっている、と患者は思っています。
障害者の心に福音をもたらすような社会制度はありますか?
もちろん、障害年金という制度があります。
私自身、それを精一杯お手伝いする事で、その人の人生の負担を少しでも軽くしたい、と思っています。
しかし、現実の厚生労働省の対応として、精神疾患の障害年金の支給は少しずつ絞っていこうという傾向が見られます。ただでさえ十分とは言えない年金ですが、それすら受給できなくなる人が多くなりそうです。
年金をあきらめたら、残されるところは生活保護のみです。こちらも各市町村の財政状況が極めて厳しいなか、どれほど受給し続けられるかというのは大きな問題となっています。
何より、それら経済的な問題を解決したとしても、それでも尚、世間体、と言う大きな壁が存在しているのです。
自分が「障害者」である、という事実を受け入れるのには、相当な時間と覚悟がいります。さらに、障害年金で社会からお金をもらって生きるしかない、と悟った時の絶望感というのは何とも言えない悲壮さを漂わせます。それは体験すると、文字通り「死にたく」なにます。
仮に、障害年金又は生活保護を受給できたとしても、その額は微々たるものです。そこから、人生が上向きになる事はない、と知る事。これも精神的に相当苦しいものがあります。
こうした大量の障害を乗り越えて、初めて「オープンな病人」を気取る事ができるのです。
中々できませんよ。
そんな苦労とリスクを背負うくらいなら、ウソついて会社に就職した方が楽ですし、お得です。
クローズにしなければ、人並みの生活はあきらめなければならない、という厳然たる事実がある訳です。
thir氏は言います。
「クローズ」においては、病気にり患している事実を徹底的に隠し続けなくてはならない。ゆえに、一般的な「健常者」が出来る業務は同様にすべてをこなすことが可能であること、履歴書上健常者となんら変わりないことを表明する必要がある。
そうする事でようやく人並みの生活を「目指す」事ができる。それが精神疾患の患者の見ている「世界」です。
てんかん患者運転規制で起きる小さな悲劇
そうした現実を踏まえた上で、免許規制が実施されたらどうなるのか、と言う事を考えましょう。
再びthir氏のブログからの引用です。
当然「運転免許を取得することはできない」ということを雇用主に対して表明しなくてはならない。その表明の際は、おそらく「なぜか」と問われるだろう。この質問に対しては、もはや素直に「てんかんを持っているので…」と回答するしかない。この瞬間に、かぶっていた仮面は剥がされ、崩れ落ちる。
運転免許証を規制した場合、できなくなることは「運転」だけではない。「クローズ」という生き方そのものが危険にさらされる。
たかが自動車免許一つによって、世間の目をごまかしながら何とか通常の生活を獲得しようともがいている人たちの、たった一つの盾はあっさり取り払われてしまいます。
むき出しになった患者は、もはや一般社会に溶け込む事は事実上不可能です。
ユートピアはあるの?
差別のない社会を創ろう、などという美辞麗句を並べる人もいるでしょう。
でも、それは無理なんじゃないですか?
だって、外見では中々解らない病気で、しかも発病したときどんな状態になるのか想像がつかないんです。
どこかが痛いとか、身体の機能が異常を来すとか、そういうものはほとんどなく、行動力がなくなる、とか、感情がかき乱される、とか、当事者以外は「想像で補う」しかない症状なんですね。
人の想像力なんてたかが知れています。
私は親しいウツ友と、「同じウツでも、あんたの苦しみはさっぱり解らん。同じうつ病なのに、ね。人間は本当にわかり合う事はできない。立場を想像するしかないんだよね。」という会話を繰り返していました。
同じような時期に、同じ病気にかかり、ほぼ毎日顔を合わせていた2人が、共通の認識として、「あんたの苦しみは解らん」というものだったのです。
況んや健常者には「想像」する事すら難しい事なのだと思います。
そういう事は、別に「うつ病」だけに限った話ではなく、どんな病気についても同様なんだと思います。
HIVとか、肝炎とか、世の中には沢山偏見にまみれた病気があります。それらのフィルターすべてを取り払ったユートピアというものは想像上の産物でしかないのです。
最後に、もう一度thir氏のブログを引用します。
差別がなくなることが最も良いことである。それは、てんかんという病それ自体への偏見がなくなり、職場についても運転はさせないとか、そういうものである。ただ、私はこの国でそういう文化が根付くのかと言われたら、根付かいと言わざるを得ないと思う。履歴書に一つでもキズがあると渋るような経営者が大多数を占めているこの国の上位層が、「キズ」のひとつである精神疾患・脳疾患にたいして寛容になることはおそらくありえない。私は社会的な差別は一切なくなるべきだと思う。しかしそれは残念ながら理想論だ。私は理想論を語りたいのではない。理想論はあくまでも理想であり現実で今苦しんでいるものにとっては、それ自体が苦痛でしかない。
それでも!それでもだ、そういった「社会的偏見はなくならない」という状況の下で、クローズという生き方を行えば、普通の暮らしがおくれるのだ……これだけは最低担保しておくべきである、それが私の主張である。
社会と個人の軋轢の中にあって
てんかん患者の自動車事故については、深刻な社会問題であることは疑いもない事です。
実際、てんかんが原因で、または原因と思われる事故が発生していることに変わりはありません。それをなんとかせずに放置することは社会正義に悖ります。
その議論が盛んになることは、社会全体としてはよいことでしょう。
しかし、それは社会の構成員である個人として、すべての人に福音をもたらすものではない可能性というものがある。
むしろ、これまで無難に生きてきた基盤を根こそぎ剥ぎ取り、暗闇の世界に追い落とすことにもなりかねない。
そういう事実もあるということも又知った上での議論になってほしいと思っています。
蛇足ですが・・・、改めてネットってすげぇ
最後に、蛇足ながら付け加えると、こうした事件についていろいろ考える上で、やはりインターネットというものの存在はとてつもなく重要な存在になったようです。
20年前の世界であったなら、マスコミ発表の「てんかん患者による悲惨な事故」が主題となり、「かわいそうな罪もない被害者」という対象がクローズアップされ、これからてんかん患者の運転免許の規制についての話をしよう、と世論は一義的に誘導された事でしょう。
今、ブログ、Twitter、Facebookといった各種発信メディアがあるおかげで、マスコミからはにじみ出てこない、様々な立場の専門家、当事者の意見を聞く事ができる世の中になりました。
その結果、世の中は全く単純ではない、という事に気づかされ、安直な結論を導き出そうという風潮が、まさに衆愚政治となりかねない危険を孕んでいる事を痛感させられるのです。
インターネットという未曾有の情報化ツールを得た現在、もっと様々な立場の人の主張をしっかり聞き取れる社会になってほしいと切に願います。
てんかんによる交通事故から思う「精神障害者の生き様」
今、世間を賑わわせているニュースに、祇園の交通事故があります。
てんかん患者による人身事故という事で、昨年のクレーン車の事故を思い起こさせます。
抗てんかん薬の反応があったとか、意識はあったようだとか、様々に問題はあるようですが、世論として、てんかん患者の運転は危険だから避けるべき、という風潮があります。
てんかんの危険性
実際、てんかんの発作の可能性のある人が自動車の運転や機械操作などに従事する事は、事故の危険性が高く、多くのてんかん患者もそれらはよく解っている事と思います。
企業側から見ると、単に安全管理上問題があり、労災リスクが高まります。何より、発作時にコントロールが効かない可能性が高く、重大事故につながりやすいという側面は無視できません。
運送関係や機械操作が伴う業種の場合、入社時においてしっかり確認をとっておく事が大切です。
患者側からすれば、聞かれなければ申告する義務はありません。
知らずに雇ってしまった場合、てんかんを理由に解雇するという事は難しくなります。
危険作業がある職場は、入社時にてんかんでないという誓約書なりをとっておく方が良いでしょう。
但し、あくまでも就業上、危険作業に従事するので安全確保のため、という合理的な理由がある場合に限ります。
てんかん患者が運転を自粛すれば問題はなくなるのか?
こうしたことから規制の強化が望まれたり、患者に対する不当な差別が助長されたりする事も別の問題をはらんでいます。
例えば、自動車の運転を一律に規制したとしたらどうでしょうか。
車の運転ができないとなれば、ただでさえ難しい就職がさらに困難になります。また、都心部を除けば、日常生活の移動にも制限を受けてしまいます。
また、単に病気であるという理由だけで権利を奪ってしまって良いのかという議論も出てくる事でしょう。
「てんかんでない事の証明」は可能か?
さらに、運転免許取得時において「てんかんでない事の証明」をとる事が可能か、という問題もあります。
この「てんかんでない事の証明」がとれるのかどうか、少し気になったので調べてみました。
「~である事」の証明は容易ですが、「~でない事」の証明は大変困難です。悪魔の証明とも言われます。
ところが、その証明を必要とする資格がありました。
銃刀法です。
「精神障害若しくは
そのため、精神科の専門医による診断書が必要になるのです。
銃の所持という非常に慎重にならざるを得ない場面では、てんかんのみならず、統合失調症、そううつ病やうつ病などの精神疾患でないという証明も必要となるのです。
殺傷能力という点から考えれば、銃も自動車も同様なのでしょう。しかし、銃と自動車では日常性に天と地との開きがあります。銃規制と同列に扱うべきかどうかは議論の余地があります。
「てんかん」で障害年金はもらえるのか?
この銃刀法のように、てんかんは所謂、精神疾患で、うつ病や統合失調症などと同列に語られます。そうすると、日常生活上の問題は、精神疾患の患者と似てきます。
一番大きな問題はお金でしょう。
うつ病などもそうですが、服薬により症状が抑えられているとしても、病名を告げて応募すれば、一般企業ではまず採用されないでしょう。働く事ができなければ毎日の生活費が出ません。
そこで社会保障の出番となります。
てんかんでも障害年金はでます。
障害年金の認定基準というものがあり、その中に「てんかん」の場合の認定基準も記載されています。
2級の認定基準によれば、
十分な治療をしていても、意識障害や転倒などの重い発作が年に2回以上あるか、転倒まではしない発作が月に1回以上あり、なおかつ、日常生活が著しい制限を受ける者
とあります。
発作の頻度や日常生活でどれほど制限を受けているかを訴える事で受給される可能性は高くなります。
又、てんかんは子供の頃に発症する事が多い病気です。20歳前に発病し、医師の診断を受けていた場合、年金を全く納めていなくても受給できると言う制度もあります。
困っている人は、とにかく専門家に相談する事をオススメします。
(当事務所でも障害年金の相談を受け付けております。私も精神障害の経験者です。安心してご相談ください。相談料は無料です。)
とはいえ、「抗てんかん薬の服用や、外科的治療によって抑制される場合にあっては、原則として認定の対象にならない。」とあります。薬で抑制する事でそれほど頻繁に発作が起きる訳ではない、と言う人は受給が難しくなっています。
てんかん、うつ病など精神障害者と社会
このように、軽度の場合、社会保障の対象にはならないにも関わらず、社会からの差別的待遇はあるため、患者は生活苦に追いやられます。
実際、労務リスクという点で、企業が精神疾患の患者を雇わない事は合理的な選択です。私が事業主であってもそうするでしょうし、顧問先にもそう言うでしょう。そして現実として、病名を告げて応募した場合はほとんど採用されていないと思います。
しかし、障害年金が出る程の障害でもない。
それでも生きていかなければなりません。
企業をはじめとする社会の立場と精神疾患患者としての個人の立場とのギャップが大きく存在しています。
この点について、身体障害や知的障害に比べて、精神障害についての対策は全く進んでいないと思います。
てんかんやうつ病などの精神障害が身体や知的障害に比べて避けられている理由は、いつ症状がでるか解らないという不確定性にあります。
いろいろな経営者に聞いてみても、いつ休むか解らないうつ病患者は雇えない、と口をそろえます。てんかんもいつ発作を起こすか解りません。この先の読めないリスクを背負う事が企業にとっては難しいのです。
そして、ずっと続く不景気により、その傾向は一層強くなってきています。
精神障害者の生きていく道とは 雇われずに働く
では、こうした精神疾患の患者はどうして食べていけば良いのか。
生活保護しかないのか。
正直、「正解」は私には解りません。
しかし、一つの解答として、「雇われずに働く」、という選択肢があると思っています。
「働く」という事は、必ずしも「雇われる」という事ではないのです。
自営業というと、不安定、というイメージが強いと思います。実際、サラリーマンに比べてかなり不安定だとは思います。
ただ、企業に「雇用されない」状態と比べると相当安定してはいる訳です。
病気であるという、どうしようもない現実。
それを知られれば雇われないという現実。
隠す事の後ろめたさ。
隠す事の難しさ。
病気療養のための空白期間、何をやっていたか、と聞かれるだけで破綻する面接。
そうした現実をかいくぐって就職する事に比べれば、手に職をつけて小さく自営業をやる方が現実的なように思えるのです。
私自身、うつ病と診断され、長期間療養したため、雇われる事は無理だと思いました。
自営業であることのメリット 特に精神障害者にとって
自営業は「不安定だ」、という事の裏返しとして、ずっと「安定的に拘束」される訳ではない、という事があります。
企業が精神障害者の雇用を控えるのは、いつでも、いつまででも働けます、という保証がないからです。と言う事は、雇われたら基本的に毎日働かなければなりません。
しかし、自営業であれば、「今日は調子が悪いからパス」、と言えるのです。
もちろん、後日そのツケは回ってきますが、自分の体調のせいですから、それほど腹も立ちません。
カバーしてくれる組織がある訳でもないので大変なのですが、それは実は雇われていたとしても同じ事です。
その日の仕事は誰かがなんとかしてくれるでしょう。でも、会社としてそういう人をバックアップするつもりはないでしょうから、早晩、退職勧奨が待っています。
それに比べれば、少なくとも自営業に退職勧奨はありません。
資金繰り等、困難も沢山ありますが、その分やりがいもあります。一度独立すると解りますが、人から「やらされる仕事」とそうでない仕事ではストレスのかかり具合が全く違います。
今、私自身に、自分の経験を踏まえてアドバイスしろ、と言われれば、迷う事なく自営業を勧めます。
そもそも日本の大企業がいつまでも日本にいるかどうが怪しいという最近の世の中です。障害年金をもらいながら、小さな仕事で補って生活していく、というスタイルがもっとやりやすい世の中になれば精神障害者の生活ももっと楽になるのに、と考えずにはいられません。
あしたの障害年金セミナー開催!! 稲沢市総合文化センターにて
3月24日に、稲沢市総合文化センターにて、「支援者のための障害年金セミナー」と題したセミナーを開催!!大好評のうちに無事終了いたしました。
セミナー修了後も無料の相談会を開き、こちらも多数ご参加いただき、時間いっぱいまでお話をさせていただきました。
さらに、地元のボランティアさんから勉強会の講師としてお願いしたいという嬉しい申し出まで!
セミナーの様子は以下の動画でどうぞ。
今回は、「以外と出るらしい」、「専門家に相談を」、「5年以内に」の3つをキーワードに、障害年金の仕組みと注意点をお話しました。
精神疾患には誤解が沢山
障害年金というと、身体障害者や知的障害者の方だけが対象だと思われがちですが、うつ病や統合失調症などの精神疾患も対象となります。ところが、まだまだ世間では精神疾患は病気ではないと思われがちです。そのため、本来、障害年金を受給してゆっくり養生すべきはずの人がもらえずにいる事が往々にしてあります。
多くのうつ病患者は、自分が障害年金の対象となる可能性すら考えていません。また、世の中の雰囲気も同様です。
しかし、精神疾患は身体・知的障害と同様に独立した生活を難しくする、大きな病気です。
社会保険労務士として、また、同じ精神疾患の患者として、この事態は看過できません。
できるだけ多くの人に精神疾患の障害年金を知ってもらい、1人でも多くの人が障害年金を受給できるようにしたいと思っています。
今日の事ではなく、あしたの心配を
今すぐ障害年金を請求しないとしても、長い人生の中では何が起こるか解りません。今は生活ができていても、後から事情が変わる事もあるでしょう。むしろ、後々までなんら環境が変わらない事の方が珍しい事だと思います。いざ、その時に慌てても手遅れになる場合が沢山あります。その時に備えて、障害年金という制度の知識を仕入れ、心の準備をしておくだけでも大きな違いを生みます。
例えば、最初に行った病院が分からないと障害年金は請求できません。そんな事は覚えているとお思いでしょうが、5年、10年、あるいはそれ以上の時間が経ってしまうとそんな記憶すらあやふやになってしまいます。そのために、実際病気で苦しみ、生活もたち行かなくなっているのに障害年金を請求する事すらできないという事例には事欠きません。
そんな事態を防ぐためには、障害年金という仕組みがどんなものなのか、将来のために何を知っておけばいいのか、何を準備しておくべきなのか、そういう事を多くの人に知ってもらいたいと思い、セミナーを開催しました。
まず動いてほしいのは・・・
ただ、多くの精神疾患の患者さんは、自分から動く事ができない場合が多くあります。うつ病などは、そういう自発的な行動ができなくなるというところが病気なのですから。
そうすると、患者さん本人に訴えかけるよりも、まず先に、その周囲の方々、家族の方、NPOなどのボランティア、民生委員など、患者さんを支援する立場の人に知ってもらう事が大切だと考えました。
多くの患者さんに接する機会のある支援者の方が、障害年金の可能性を示唆してくれるだけでとても大きな効果があると思います。
今後も、いろいろな場所でこうした無料のセミナーを行っていこうと思っています。
また、障害年金の請求事務のご説明については無料で相談を受けています。
ご興味のある方は、是非お問い合わせください。
お問い合わせはこちらから>>>
年金の支給年齢引き上げで若者は損をするのか?
厚生年金の支給開始年齢が、65歳から引き上げられようとしています。
金は破綻した」との指摘も(ニューストピックス編集部) – livedoor ニュース
厚生労働省は11日、厚生年金の支給開始年齢引き上げを提案した。政府は、国民の生活に直接関わってくる消費税やたばこ税だけにとどまらず、年金の支給時期を遅らせることで国費の節約を図ろうというのだ。
これに対して、賛否両論渦巻いているわけですが、私の意見としましては、もはや致し方がない処理かな、という諦めの気持ちが強いです。
以下、思いついた事を少し書いてみます。
「100年安心」の厚生年金の実態とは? 支給年齢引上げも止む無し
厚生労働省が100年安心と謳う試算は、何と年利4%で計算されていて、そんな高利回りが今の世で実現できる可能性は限りなく低いわけです。当然、厚生官僚もそのことには気づいているのでしょうが、国家無謬の原則により、「この制度ダメです」とは言えません。高度経済成長がとっくに終わり、「失われた10年」が既に20年にも至ろうとしている今、現状の給付を維持するのは絶対不可能。
今すぐ給付金額を下げるか、近い将来の受給年齢を引き上げるかしか方法はなく、人の心情として、嫌われることはできるだけ後回しにしたいという気持ちなのでしょう。
また、今すぐ改革すると、既に稼得能力を喪失してしまって久しい人達にとってはとても厳しい世の中になってしまい、食っていけない人も相当数出るでしょう。それらの不都合に対して、結局周り回って国が補填しなければならなくなるのは目に見えています。そうなってしまっては改革は改革でなくなってしまいます。社会に与える影響を考えても、後回しにするのは止むを得ないことだという風に思っています。
若年世代は年金をもらえるのか? 70歳まで働き続けられなかったら?
このままの調子でいくと、私(昭和49年生まれ)の年金支給は70歳くらいになってしまうでしょう。個人的に、その年齢まで全く公的年金がなく、働き続けなければならないと思うと気が遠くなる思いがいたします。心身ともに丈夫であればまだ良いのでしょうが、そのどちらにも自信がない身としては、歳をとっても元気でいられる保証はさっぱりない訳でして、病気でもしたらどうしよう、と思うのです。
そうしたらどうしようか、と自分の身に置き換えて考えて見るのですが、案外答えは簡単です。
つまり、働けないのだから「障害年金」を受給すれば良い、という事になります。
障害年金受給の判断に大きな影響を与えるのは「労務不能かどうか」です。何らかの疾病を患って仕事ができないとなれば、障害年金が支給される可能性が出てきます。70歳まで、というくくりで考えると、働けないほどの病気にかかる人は相当程度多くなるのではないでしょうか。
結局、70歳まで働ける人は働くが、そうでない人は、老齢年金の代わりに障害年金をもらう、という図式になりそうに思います。
支給年齢引上げ時代の今だからこそ、年金加入の意義がある!
そこで問題になるのは、国民年金の未納問題です。「将来の年金なんて当てにならない」というのが未納者の常套句ですが、年金支給年齢の引き上げに伴い、障害年金の支給年齢も引き上げられる訳ですから、むしろこの流れでいくと、障害年金は「当てになる」可能性が高くなるのではないでしょうか。
現実に、現行の制度でも、しっかり働いて厚生年金を払っている人が病気になった場合、65歳以上であっても障害年金は支給される可能性があります。ただ、国民年金は65歳までなので、金額的には老齢年金をもらった方が得な事が多いというだけです。
しかし、老齢年金の支給開始年齢が引き上げられれば、障害年金の対象となる年齢も引き上げられると考えるのが道理ですから、障害年金をもらえる人もそれなりに増えていくのではないでしょうか。
あまり気持ちの良い予測ではないですが、現在の障害年金と将来の障害年金では、その意味合いが違ってくるという可能性すら出てきます。すなわち、今は事故や不慮の病気に対応するもので、あまり身近な存在ではないが、将来は老齢年金をもらうまでのつなぎとしての障害年金として、高齢の方にとって身近になってくる、という社会。
「保険」という本来の役割が加入のインセンティブになる
そうなってくると、若い人達でも年金に加入するインセンティブになりうるような気がします。もらえない、もらえない、とばかり思っている人も多い年金制度です。が、金額を下げる方向ではなく、支給開始年齢を引き上げるという方策がしばらくは続くと予想するならば、障害年金としてもらえる可能性はぐっと広がるわけです。
しかも、高齢かつ障害状態という、まさに保険が贖うべき状態をケアしてくれるのですから、保険としても本旨に沿った制度になりうる、とも思えます。
厚生労働省も、そういう方向からアピールをすれば、もう少しは年金未納が減るかもしれないですよね、と思う今日この頃なのでした。
年金もらえる歳まで、希望すれば例外なく雇用継続しなければならなくなる?
高齢化社会というものが着々と進行しているようでありまして。
とうとう来るべき次の時代が幕を開けそうな様子なのであります。
■高年齢者雇用安定法による高年齢者雇用確保措置の選別基準撤廃へ
希望者全員、65歳まで雇用へ 継続の選別基準撤廃 – 47NEWS(よんななニュース)
厚生労働省は12日、高年齢者雇用安定法を改正し、労使合意の上で65歳までの継続雇用者を選別できる「基準制度」を撤廃する方針を固めた。年金の受給開始年齢が段階的に65歳まで引き上げられることを受け、希望者全員が例外なく、受給開始まで仕事を続けられるようにする考え。
厚生労働省のページはこちら
職業安定分科会雇用対策基本問題部会審議会資料|厚生労働省
これまでは定年延長も、事業主側で客観的な基準を設けておく事で、全員を延長する必要はなかったのでありますが、これからは、どうやら希望したら全員を延長しなければならなくなるようです。
大きな会社は何とかなるにせよ、中小企業にとってはかなり痛いのではないでしょうか。
■世代間ギャップの問題と賃金体系
現状でもノンワーキング・リッチと呼ばれる高給を食む中高年者と、ワーキング・プアな若年層との世代間格差が言われており、その問題の一つに、上のポストが空かないからいつまでも若者は下層に甘んじている、というものがあります。
必ずしもそれだけが原因とは思いませんが、実際、いびつな人口構成が続く今後を考えると、大きな問題ではあります。もう定年でいなくなる、と想定していた人達が、やっぱり残ります、となると、当然新規採用は抑制されてしまう訳ですから、失業率にも影響してくるでしょう。
また、実際に提供している労働の価値と報酬との乖離の意味も大きくなるように思います。若年時に貯蓄をして、高齢時にその貯金をおろすというサラリーマンの収入構造を本格的に変革しなければ、日本の雇用制度が大変な事になってしまうように思えてなりません。
また、年功序列が崩れたとは言いながら、やはり年齢の高い方はそれなりの地位にあるもので、日本人の文化的にも、仮に地位が低くとも、年長者を無下に扱う事も難しいということもあり、結局、稼働能力そのものに見あっていないポジションをもらっている人が相当数いるのではないかという懸念がより大きくなります。
■その事はひいては日本の経済力に影を落とす
この事は、単に世代間格差の問題だけにとどまらず、日本の生産力の低下に直結している問題なのだと思っています。中国に抜かれたとはいえ、日本はまだまだ経済大国、などというのはお為ごかし。すでに一人当たりの生産性は先進国の中では最低レベルにあります。働きバチと呼ばれ、現代でもサービス残業、無償の休日出勤、持ち帰り残業などのカウントされていない時間外労働が相当レベルで横行している中でのこの生産性の低さは絶望的とも思えます。中国をして人海戦術の国と嘲笑していたのも今は昔。現在では、低い生産性を多量の人口で補っているのは正に日本なのです。
今の日本の問題点のほとんど全てがこの低生産性にあるのではないかとすら思っています。歳を召した方は、それだけの経験と知識が蓄えられている事は間違いないと思います。ただ、実際に行動する力は残念ながら衰えるものです。であれば、高年齢時の賃金は、論功行賞的な事を一切排除して、持てる知識と経験に基づき、それを如何に現場に落とし込めるのか、という一点のみで評価されるようになるべきなのかも知れません。そして、その事は、一人高年齢者に当てはまる事ではなく、若年者にも当てはまる事です。
■いまこそ賃金制度
畢竟、日本人は個人の能力で勝負した賃金というものから逃げすぎているのではないでしょうか。労働の価値に見あった賃金制度。これこそが今の日本に求められている事なのだと思います。
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